富士重工業(スバル) ラビット S-2

ferrari dino photo

戦後の荒れた路面を最初に走ったスクーター

第二次大戦中、国内にいくつかの航空機メーカーが存在した。 その中でも中島飛行機製作所は世界的にみても超一流の航空機を生産していた。 その技術の高さは『誉』と呼ばれる空冷星型エンジン一つを見ただけでも窺い知れる。 当時『誉』は二千馬力級のエンジンとして当時世界最高性能、最軽量を誇っていた。

しかし戦況は悪化し、中島飛行機の工場も3回ものB29の空襲を受け、壊滅的な状況にあった。
終戦後、連合国軍GHQ総司令部により国内での航空機の生産は禁止される。 壊滅的な状況の中島飛行機は社名を富士産業(今の富士工業)と改め、残った技術者達が航空機の外板(ジュラルミン)、双発機『銀河』の尾輪などを使ってスクーターの開発を始めた。
しかしスクーターを贅沢品だとするGHQから生産中止の勧告がなされる。アメリカにおけるスクーターは若者たちの遊び道具であり、当時の日本にはふさわしくないと判断されたのだ。その後、各メーカーや自動車工業会、通産省がGHQを説得し、荷物を運搬するなどの実用品としてのスクーター生産がようやく認められることとなった。

昭和21年6月試作第1号が完成した。モデル名『S-1』。 4サイクルSV、135cc、最大出力2HP。 この時こそが国産初のスクーターが生まれた時だった。 参考にしたのは、終戦後工場に持ち込まれたアメリカ軍落下傘部隊のスクーター『パウエル』である。

スクーターには機械的な複雑さを感じさせない道具的要素が求められ、モーターサイクルとは一線を画する存在である。メカニズム的には、手動クラッチとミッションが組み合わされたヨーロッパ式と無段自動変速を採用したアメリカ式の2つのスタイルに分類でき、日本のスクーターの多くには後者のメカニズムが多く採用された。

展示車は、そのS-1の後継車S-2初期モデルが大きな修復もせずに生き残った貴重なモデルである。S-1のフロントにスプリングをつけ、エンジンを少し改良した程度で、基本的な構造はほとんど変わっていない。ボディは一度か二度の再塗装を受けているが、ところどころには戦時中に使われた航空機の塗料がいまだ残っている。いまや国内に数台しか存在しないといわれる。