戦闘力と安全性との対立
1955年6月。ジャガー、メルセデス、フェラーリ、マセラーティなどが最新のマシンをもって臨んだ第23回目のルマン24時間耐久グランプリレース。ドライバー、ピエール・ルヴェーと80人の観客が死亡するという、モータースポーツ史上最悪の惨事に見舞われた。
FIAは世界の主要サーキットの安全強化を要求するとともに、マシンのレギュレーション強化に着手することとなる・・・。
当時のモータースポーツの統括団体CSIのアペンディックスJでグループ3に規定されたGT(Grand Turismo)は、連続した12ヶ月に100台以上の生産を要求した。100台を生産するということになると、製造メーカーは市販を考えざるを得ず、結果的に路上での日常使用に耐えうる実用性を兼ね備えることにつながる、と考えたのだ。
その頃までのワールド・スポーツカー・チャンピオンシップは、そのスタート以来ほぼフェラーリの独占するところであったが、100台以上という生産台数の規定はフェラーリのような規模の小さなスポーツカーメーカーにとっては容易に達成できるものではなかった。
'56年からは、メイクスチャンピオンシップのかかったミッレ・ミリア、タルガ・フローリオ、ルマンのようなイベントに、アペンディックスCカーとともにアペンディックスJ、グループ3のGTも併走するようになり、やがてGTカーだけのレースも開催されるようになる。
'61年にCSIはワールド・マニュファチュアラーズ・チャンピオンシップの対象をGTにするという決断をくだした。1300cc以下のGT I、1301〜2000ccのGT II、2001cc以上のGT III という3つのチャンピオンシップが誕生したのだ。その結果、GT Iではその年、SZをもつアルファ・ロメオがチャンピオンシップを獲得。翌年からはアバルトが独占することとなる。GT IIでは中排気量の王者ポルシェが何者をも寄せ付けなかった。そして、'65年にコブラに奪われるまでGT IIIのチャンピオンシップを独占し続けたのがフェラーリである。
この250GTOの前身、フェラーリ250GTは'56年に登場した。ジョアッキーノ・コロンボの設計を基とするフェラーリ初のシリーズ・プロダクションカー、250ヨーロッパを改良したもので、ボディはピニンファリーナが担当。フェラーリ初のGTとしてホモロゲートされ、ナッソーのGTレース('56年)、トゥール・ド・フランス('57〜'59年)で勝ち続けた。その後期のレース用GTは、スカリエッティのボディを持ち、「トゥール・ド・フランス」とよばれている。
'59年には250GTベルリネッタ・トゥール・ド・フランスのホイルベースをさらに2.4mに短縮。ピニンファリーナ・デザイン/スカリエッティ製作というアルミボディを載せたレース用250GTB(SWBともよばれる/ショートホイルベースの意)が誕生する。このSWBは誕生以降、ほとんどのGTクラスを独占。圧倒的な強さを誇った。そして、SWBをさらにリファインして生まれたのが250GTOである。
250GTOのシャシーは基本的にSWBのものをリファインし、バルブ径を増したフル・テスタロッサ仕様エンジンを積む。SWBは豊かなボディ曲面のゆえに最高速は250km/hが限界であったことから、ジョット・ビッザリーニの指揮するフェラーリのレース部門がピサ大学の風洞を借りてそのボディを徹底的に改良し、製作したことは有名である。
GTOは最終的に39台しか造られなかったために、それ自体ではGTとしてのホモロゲーションを受ける資格がなかった。しかし、その体に流れるスピリッツこそGTである、という評価がなされ、SWBのエボーリューションモデルとして、GTとして認められたのだ。
こうしてGTとしてサーキットに現れたGTOはまさに無敵で、'62年〜'64年にメイクスチャンピオンを独占し続けたのだった。
specification |
Engine Type |
水冷60°V12 SOHC キャブレター6基 |
Cubic capacity |
2,953cc |
Maximum horse power |
280hp / 7,500rpm |
Maximum torque |
30.0mkg / 5,500rpm |
Maximum speed |
280km/h |
Dry Weight |
950kg
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