比類なきパワーとスタビリティを持つRS200は生粋のグループBラリー・マシン。
しかし、時が勝利を許さなかった悲運のマシンである。
高性能ラリー・マシンたちが開発されたグループBの時代。フォードRS200を語る前に、まずその時代背景となるFIAグループについて触れねばならないだろう。
グループBとは、1983年までWRCの主導権を握っていたグループ4に代わってラリー界に登場したカテゴリーである。新たな規約として、12ヶ月間にわたる生産台数を200台以上とすることが義務づけられた。グループ4の時代と比べると、生産義務台数が大幅に削減されており、マシンは一層コンペティション・マシンとしての要素を強めることが可能となった。
それまで耐久性が重視されていたラリーカーに、軽量で剛性の高いボディが与えられるようになり、4WDやミッドシップ、繊細な電子制御エンジンにエアロパーツなどが開発され、ラリー界で活躍を始めたのもこの頃である。
このようにグループBは多くの技術革新や話題をもたらした。しかし、高性能であるがゆえに事故も多く、わずか4年で廃止されることとなる。
フルタイム4WDに高出力エンジン。フォードが勝利にかけた執念。
グループB最盛期、フォードが優勝を獲得するためだけに開発したマシンがRS200である。
1979年に初のメイクスタイトルを獲得して以来、WRC(World Rally Championship)から遠ざかっていたフォード・ワークス。そのエンジニア達の悲願をかけ、WRCで優勝を獲得するためだけだけにコンペティティブラリーカーRS200は誕生した。
モータースポーツの最高峰といわれるF1のポテンシャルをラリーにフィードバック。シャーシデザインにはトニー・サウスゲートによる非常に剛性の高いプラットホーム型を採用した。
センター・モノコックから延びたメンバーに取り付けられるパワーユニットはコスワースBDTを採用。オールアルミ4気筒DOHC4バルブ1804ccエンジンにギャレットT4ターボチャージャーを装着している。
さらにRS200ならではのメカニズムとして、シフトレバーで「後輪駆動」「トルク配分がF37/R63のフルタイム4WD」「セルターデフ・ロックによるF50/R50の4WD」の3種類が選択できる駆動システムを開発し、あらゆる路面状況に適応できるフレキシビリティを持っていた。
その流麗なボディデザインにもフォードがRS200に寄せた革新のエネルギーが感じられる。70年代後半を圧巻したエスコートRSの無骨なスタイリングや、それまでのフォード製市販車のどのタイプとも似つかない、空力学を考慮して丸みを帯びたRS200専用のギア製FRPボディを作り上げたした。
このように、あらゆるパーツが量産車の流用でなくRS200のためだけにつくられており、勝利にかけたフォードの執念を感じることができる。
叶わなかった夢
1985年7月、イギリス国内選手権にプロトタイプカーとして出場、マルコム・ウイルソンによって圧勝したことにより、RS200に対する期待は一気に高まった。
しかし、その後のWRCデビューは大きく遅れた。グループBのホモロゲーション(出場規約)をクリアするための生産が進まず、85年のRACはキャンセル。さらに、翌86年の開幕戦モンテカルロラリーも見送られ、デビューは第2戦スウェディッシュラリーまで持ち越された。
ドライバーに73年以来5勝、2位5回を誇るスティグ・ブロンクビストを迎えるという幸運に恵まれるが、このスウェディッシュ戦ではエンジントラブルによりリタイアしてしまう(カール・グランデルの3位入賞により、かろうじてFORDの面目は保たれた)。
第3戦のポルトガルラリーではヨアキム・サントスのRS200が観客に飛び込み死亡事故を引き起こしてしまう。すでにそのグループBラリーカーの性能は人間のコントロールできる領域を越えてしまっていた。第5戦ツール・ド・コルスで、Lancia
Delta S4がコースアウト、ドライバーが炎上死するという大惨事から、ハイスピードのグループBに対するレギュレーションの見直しが行われ、翌1987年からはWRCはグループA車輌で開催されることとなり、グループBは消滅した。
アルミハニカムの強靭なモノコックにチューブラフレーム、前後ともにストロークを十分確保したツイン・ショックアブソーバ、RS200はフォードの究極のグループBカーとして誕生した。だが、その寿命はわずか半年、スウェディッシュでの3位をベストリザルトとして、わずか4戦を戦ったのみで消えた悲運のラリーカーである。
四国自動車博物館に静かにたたずむRS200は、グループBのフィールドを疾駆する夢を今も見続けているのかもしれない。
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