ミッドシップに空冷フラット4のエンジンを搭載。
万能型のレーシングカー、ポルシェ904カレラGTSは、サーキットで、ラリーで、抜群の信頼性を発揮した。
マシンの進化に伴い、モータースポーツが高度に専門化し始めた1960年代に、
あらゆるレーシング・シーンに対応できるスポーツ・レーシングカーを目指して904カレラGTSは、ポルシェの持つ独自の技術力を結集して誕生した。
その戦績は輝かしく、本当の意味で最後のスポーツ・レーシングカーといわれている。
'65年、第2回日本GPでは式場壮吉が操縦。生沢徹との大接戦の末、優勝を飾ったのはあまりにも有名な話。
ポルシェ最後のロード・ゴーイング・レーシングカー。
ポルシェ904カレラGTSの誕生は1963年。ポルシェ初のFRPボディのレーシングカーであった。この904GTSは、それまでのカレラと異なり、ベースを生産型の356からRS(レン・シュポルト=レーシング・スポーツ)に変更。純粋にレースだけを目指した設計に基づき、ほかの生産型とはまったく別のモデルとなった。
ボディのFRPは航空機で有名なハインケル社製のものを採用。スタイリングはフェルデナンド・ポルシェU世が手がけた。エンジンは空冷水平対向型4気筒DOHCの1966cc。大幅なチューニングにより、キャブレーションはツインチョーク・ツインウェバーに、圧縮比は9.8に向上、180馬力の最大出力を絞り出した。また、低回転で安定したアイドリングをする特性を持つ。当時、GTの規定生産台数は年間100台であったが、ポルシェはこれを半年足らずで達成した。
この後、競技車は一般車と分化され、904GTSは一般公道を走れる最後のレーシングカーとなった。
様々なレーシング・シーンで観客を圧倒。
904GTSは、タルガ・フローリオでは初陣の'64年、1-2フィニッシュを飾る。翌年は2位から5位を独占した。ル・マンでは、'64年、7台の904がスタートし、5台が見事完走。翌年は総合5位に輝いた。その他、セブリングやニュルブルクなどの国際選手権にも参戦。クラス、総合部門で好成績を残している。
904GTSは合計104台生産された。そして、その中の13台だけは特殊なボディを持っていた。燃料タンクのキャップがキャビネットの中央に位置し、サイドウィンドウが引き上げ式であることなどがその特徴。これらはレーシング・ボディ、または、ハイ・ウィンドと呼ばれ、ワークス仕様のモデルを意味する。
四国自動車博物館の展示車(シャーシNo.031)は、それらの13台の中でも特に貴重な1台である。前オーナーは医師の故ジェフ・ルビー氏。ワークス仕様車がプライベート・オーナーの手に渡るのはあまり例を見ない。ニュルブルクなどのレースにプライベートでエントリーし、無傷のままでレース活動を終えた。
そのため、唯一のオリジナル塗装車といわれ、ボディにひずみもない。すなわち、904GTSのなかで世界一オリジナリティの高い1台なのである。
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