大衆乗用車の量産・量販を実現することは、創業以来のトヨタ自動車の念願であった。
大衆乗用車時代幕開けの兆しが現れはじめた1954年頃、トヨタで超小型乗用車の開発計画がスタートされる。そしてその追い風となったのが、1955年5月に発表された「国民車育成要綱案」だった。これは、通産省が実用的な国民大衆車の開発を奨励するというもので、国民と自動車業界に強烈なインパクトを与るものであった。
その「国民車」の骨子は、
○最高速度は100km/h以上となること
○60km/h走行時で1リットル当たり30kmの燃費であること
○乗員2〜4名と100kgの積載ができること
○エンジン排気量は350〜500ccとすること
○月産2000台を目標とし、生産価格は15万円以下(後に25万円以下と訂正される)となること
とされ、各自動車会社に試作車の製作を求めた。通産省のこれらの要件をクリアし、選定された1車種には財政資金が投入されることもあって、各社の開発競争に拍車がかかることとなる。
そして生まれたのが、トヨタ初の大衆車、パプリカである。
この「パブリカ」のネーミングは、発売に先行したキャンペーンとして車名公募が行われ、108万通の応募作のなかから選ばれた。パブリック・カーからの造語で、大衆車の慕開け時代を象徴するにふさわしいネーミングである。
1961年6月に初代パプリカは発売され、東京店頭渡し価格は38万9000円(4速MT)であった。1965年にはセダンが800ccにアップされたのにともないUP20S型へと発展し、当時のトヨタのイメージリーダーカーの役割を果たした名車である。
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