ALFA ROMEO Giulia TZ

アルファ・ロメオ TZ ストーリー (前半)

新しい空力理論を実践してみせたSZ

1960年に登場したアルファ・ロメオSZ(Sprint Zagato)は、市販モデルのジュリエッタのフロアパンとパワーユニットを使ったコンペティション用のGTであった。ボディはアルファ・ロメオと長い間密接な関係にあったカロッツェリア・ザガートが担当。パワートレインと2名分のスペースをコンパクトにまとめ上げ、全身をスムーズな曲線で繋いだかのような、軽量クーペを造り上げた。ボディにアルミニウムが用いられたことで車両重量は770kgと軽量に仕上がり、トップスピードは1.3リットルながら200km/hに達するという目覚ましいものであった。
さっそくGTのホモロゲーションを取得し、レーシングフィールドに飛び出すと、クラスでは群を抜く高性能ぶりを示し、時には上位のクラスをも脅かす存在となる。SZのその愛らしく丸いヒップの形状から、今もヒストリック・アルファの愛好家に大きな人気を博している。

だが、レース出場も回を重ねるほどに、この可愛らしいボディの弱点が露呈されるようになった。エンジンはアルファの外部協力者コンレロらにより高度にチューンされていたが、ボディ形状が空力的に不利で、スリークなボディを持つロータス・エリートなどのライバルたちにストレートで遅れをとらないようにするには、空力特性を早急に改善する必要があった。そして翌1961年の夏にはノーズを伸ばしテールをたち落とした、いわゆるコーダトロンカ(coda tronca)の後期型SZが登場する。このデザインはそれまでのスポーツカーの常識を覆すデザインで、見るものを驚かせる衝撃的なものであった。

それまで高性能車のデザインを支配してきた空力のアプローチは水滴型、つまり流線型のボディ形状が優れているとされ、後方にいくに従い細くなるテールは、長ければ長いほどよいとされていた。当時ではまだ飛行機や船舶の開発から得た常識に支配され、地面をタイヤで走るという自動車の特性を考慮した空力のアイディアは充分に確立されていなかったのだ。しかし、長いテールはボディに気流を張り付けることになり、摩擦抵抗を増すだけでツイスティーなサーキットでの運動性を損なう ものであった。 この解決策として、ザガートは旧来からのボディ・デザインの常識を踏襲することなく、テールを思い切りカットしたコーダトロンカを採用したのだった。  

SZの最終的なコーダトロンカ・ボディの形状は、ザガートのチーフデザイナーを務めるエルコーレ・スバーダの手により完成された。この新しいボディの採用により、パワーユニットを変更することなく走行性能が飛躍的に向上した。スピードテストに自ら臨んだスバーダとエリオ・ザガートは、ミラノーポローニア間のアウトストラーダで1.3リットルとしては驚異的な227km/hのトップスピードを記録している。
それまでのレーシングカーやスポーツカーで常識とされていた流線型と相容れない、奇妙なSZのコーダトロンカは、発表当初には懐疑的な目で見られていた。しかし、その後のサーキットでの成功がこれを払拭し、後期型SZは30台が造られ、ラウンドテールの初期型のオーナーもこのコーダトロンカにモディファイした例が見られた。

その新しいGTは専用の鋼管スペースフレームを持っていた。
これによりそのマシンはTZ(Tubolare Zagato)と呼ばれることになる。

アルファ・ロメオの新しいレーシングGTの計画がスタートしたのは1959年頃というから、ラウンドテールの初期型SZがデビューする以前にこの計画が始まっていたことになる。量産モデルのジュリエッタのパーツを使ってSZを生産し、一方でさらに強力なコンペティションGTを製作して、本格的にモー タースポーツに復帰しようというシナリオがそこにあったのであろう。戦前に輝かしいレーシング・ヒストリーを持つアルファ・ロメオが、 いつまでも小排気量車によるクラス・ウィンで我慢できるはずはなかった。

TZに鋼管スペースフレームを採用させるきっかけは1955年にまで遡る。この年、カルロ・アバルトは鋼板を組み立てたボックス・タイプのシャシーを製作、それに750ccにスケールタウンしたジュリエッタ用のユニットを搭載する計画を実行に移 した。アバルトは完成したシャシーをアルファ・ロメオに提示したが、アルファのジュゼッペ・ブッソがテストしたところ、強度が大幅に不足することが判明した。そこでアルファはこのシャシーを鋼管製のペリメーターフレームで強化し、イタリア国内の1. 5リットル スポーツカー・レース用に4気筒1.5リットルエンジンを搭載した750コンペティツィオーネを製作する。
アバルトはその後もアルファとの共同作業を熱望し、1958年のトリノ・ショーでベルトーネ製のクーペ・ボディを持つ、アルファ・アバルト1000GTクーペとして具体化した。シャシーにはアルファ・ロメオのデザインによる鋼管スペースフレームを採用、ブッソの監督のもとイヴォ・コルッチ技師がデザインした。1リットルのエンジンは同じくジュリエッタ用のものを縮小したものを搭載する計画であった。
ところが、このクーペはコストがあまりにもかかりすぎるため、商品化が難しかった。代案としてカルロ・アバルトはストックの1.3リットルのヴェローチェ・ユニットを搭載することを主張した。しかし、もしこの計画が実行されると本家のジュリエッタ・スプリント・ヴェローチェを凌ぐ存在になることは明白であり、アルファにより拒否されてしまう。報復に出たアバルトはコルッチ技師を引き抜いてしまうという過激な行動をとる。彼はその後、アバルトの技術者として大いに腕を揮い、同社に数多くの秀作を生み出すこととなった。

結局、このアバルト・アルファの計画は実現することなく終わった。しかし、この経験を下敷きにしてオラツィオ・サッタとジュゼッペ・ブッソの設計により、デザインナンバー105.11のもと、TZのプロジェクトがスタートしたのだ。そのコンセプトの中核は、1962年にデビューが予定されていた量販車種のジュリア用1.6リットルエンジンとパワートレインを使い、軽いボディを架装することであった。当時のGTのレギュレーションでは100台以上の生産が定められていたため、ブッソはこのレーシングGTをアマチュアのレーシング・チームに販売することを計画した。そこで、信頼性が高く、メンテナンスが容易であることなども設計に取り入れながら開発を進めたといわれている。

アルファ・ロメオのエド・マゾーニのデザインになる鋼管スペースフレームは、前後のサスペンション・マウントを含んで62kg(40kgとの説もある)と軽量に仕上げることができた。エンジンは基本的にストックのジュリア用1570cc(78×82mm)のままだが、ポルゴ製ピストンを採用、圧縮比を9.7にアップして2基の45DCOEウェバーを備え、DIN表示で112HP/6500rpmを発生した。これは1.6リットルのレースを前提としたGTとしては控えめな数字だが、それはストリートユースが可能な標準状態に過ぎず、実際は大幅にパワーアップ されることを前提とし、レース仕様車は優に160HPを越えるまでパワーアップされるのか普通であった。 サスペンションはフロント、リア ともタブル・ウィッシュポーン/コイルで、ブレーキは4輪ディスクだが、リアのみはインボードに配置された。

1961年1月に2台分のTZのシャシーがボディ製作を担当するザガ−トに引き渡された。 しかし、この時期のザガートは前述のコーダトロンカSZの開発が最終段階にあった多忙な頃でボディ製作が一向に進まなかった。ブッソは連日のようにザガートへと足を運び、プロトタイプの製作をせかせたという。その結果2台のプロトタイプが完成するが、それは取り外し式のハードトップを備えたロードスターであった。リアは進行中のコーダトロンカが控えめながら採用され、フロントもコーダトロンカSZに似たデザインであった。
このボディは何より軽量であることが特徴で、トップを外した場合には、SZより100kgも軽い600kgを切るほどに仕上げられた。だが、1961年の秋にアルファのドライバーであるサネージやモローニの手でテストが開始されると、その結果は芳しいとはとてもいえなかった。パワフルな1.6リットルエンジンと軽量ボディの組み合わせであるのにもかかわらず、トップスピードは208km/hにすぎず、モンザのラップタイムも1.3リットルのSZにはるかに及ばなかった。さらにハンドリングにも問題があることが明らかにされた。このため、サスペンション セッティングの見直しが図られる一方で、ボディもSZコ ーダトロンカの考えをさらに突き詰めたクーペへと改められることになる。

アルファ・ロメオはその当時新しい糧となるジュリアに全力で取り組まなければならず、手間の掛かるこのTZを12ヵ月間に100台以上組み立てるキャパシティは持ち合わせていなかった。そのため生産はすべて外注されることとなる。ボディの製作はザガートが担当し、組み立て作業はヴェニスの北方のウーディネでアルファ・ロメオのディーラーを経営するチゾッラ兄弟の手にまかされた。彼らの組み立て工場はデルタ(Delta)とよばれていたが、まもなく元フェラーリの設計者でATSにも在簿したカルロ・キティが参加して改組され、アルファ・ロメオの実質的なワークスチーム、アウトデルタと改められた。このためアウトデルタがエントリーしたワークスカーのレジストレーション・ナンバーには、ウーディネの地域表示"UD"が記されている。

後半に続く

参照文献:SUPER CG 15号 1992年