今回の私たちの当初一番の目的は救急車の贈呈式に出席すること。ところが出発 2 日前になって、贈呈するはずの救急車がまだ現地に到着していないという事実が発覚。「あら?何の為に行くんだっけ?」と目的を見失いそうに…。それでも、これまで「会社が取り組んでいるボランティア」に対してぼやけたイメージしかなかった私にとっては、開かれる予定だった盛大な贈呈セレモニーよりも、現地を見て感じるという事こそが大切な事だったと思う。
インドネシアに到着して2日目、バリ島から飛行機で1時間少しのスラウェシ島へ。今回救急車を贈呈するバンタエンも、清一さんが滞在しているマカッサルもこのスラウェシ島に位置する。日本で例えるとスラウェシ島が四国。マカッサルとバンタエンはそれぞれの県ということになるそうな。到着したマカッサルの空港は日本の四国内のどの空港よりも大きく、近代的で、着いて早々に抱いていたイメージが覆された。「ここが援助を必要としているのだろうか…?」そんな事を考えながら、車で約 30 分、清一さんが現在、技術指導を行っているハジカラトヨタ社へ。こちらも立派な事務所にショールーム。本社と清一さんが現在勤務している営業所、もう一つ別の営業所と 3 店舗を回ったが、どの店舗もショールームのテーブルには花が飾られ、キッズコーナーにはおもちゃが置かれ、タイル張りの床も清掃が行き届いており、「うちのショールームももっときれいに掃除しないと…」と思わせるくらい。ただ、どのショールームも暑い!原因はここ最近、電力が安定していないようで、 1 日に数回停電してしまうとのこと。。自家発電により最低限の照明などは無事だったが、エアコンまでは使用できないようで、私たち日本人に限らず、現地の方も「暑い、暑い」と手で扇いでいた。
ショールームでは主に女性が店頭営業として配置されており、どの店舗にも数人の女性スタッフがお客様の応対(新車営業)を行っていた。なかなかやり手の女性陣のようで、皆が月に数台販売するのだとか。肘をついてお客様と話していたり、飲み物も紙パックそのままに出されていたり、応対マナーは決して良いものとは言えないが、国民性なのか、視線が合うとどの人もニコッと微笑んでくれる。表面的な印象としては日本のディーラーと大きく差があるようには感じられなかった。ただ、同じ会社の中でも様々な「差」が感じられた。それは例えばショールームと整備待ち合い室の「差」。整備待ち合い室はどこか暗く、飾られた花もなく、代わりに売店があり、ジュースやちょっとしたお菓子が買えるようになっていた。新車を買いに来たお客様にはサービスで出されているようだったが、整備のお客様には販売しているようだった。また、働いているスタッフも制服をバッチリと着て営業や事務を行っている人がいる一方で、工場前で入って来た車を出迎える専用スタッフ(お出迎えの意味よりは、入庫する車はボデーに傷などないかを先に必ずチェックするらしく、その意味が強いように思われた)はTシャツにジーパン。間違いなく私服だと思われ、同じ会社で働くスタッフにも差は感じられた。この差はそのスタッフ間の生活水準の差にもなっているように思われたが、悪い側面だけでもないようで、専用スタッフを設けているのは、「わざわざ仕事を作っている」という事のようだ。日本でも最近の不況の中、「ワークシェアリング」という言葉が聞かれた。仕事を失くしてしまう人をできるだけ少なくするために、一人一人の仕事の量や幅を減らして、大勢に仕事を分配する。失業率が高いほど治安は悪くなるというのはどの国も同じなのだと思う。
それにしても、ショールーム、事務所、工場、どこも暑かった。普段、ショールームや事務所はエアコンが効いているとは言え、一年中夏の国。何となく、仕事や普段の生活に機敏さがなくても仕方がない気がする…なんて思ってしまった。だって、暑いとそれだけで体力を消耗しますよ。だからこそ、そんな中でも効率アップ!に取り組んでいる清一さんをすごい!!と思った。
さて、翌日はいよいよバンタエンへ。普通に車で行けばマカッサルから3時間以上かかるらしいが、2時間かかったかな?くらいで到着した。それもそのはず、私達が乗った2台の車の前を1台のパトカーが先導。車線を無視し、前を行く車も、対向車も、様々な種類のクラクション(プーピーやブッブーなど)で蹴散らしながら、一般道を 60 キロから 100 キロ超えでアクション映画のように走り抜けた。(ちなみにマカッサルの交通事情は日本からは想像できないくらいに悪い…。2車線でも車が3列になっているのは当然。大量の車と大量のバイクがクラクションを鳴らし合いながら、ゆずり合いの精神のかけらもなく走っている。だからいつもどこも渋滞・・・)何度も「ひゃー」となりながらバンタエンに到着。マカッサルと違い大きなショッピングモールや近代的な建物は見られなかったが、とても小さいけどピンクや水色のかわいらしい学校らしき建物は来る途中でいくつか見られた。
さて、まずは知事公舎へ。それほど大きな建物ではないが、中はきらびやか。ソファやテーブルは私たちを歓迎して飾りが施されていた。
知事不在のため、そのまま先にこの地区唯一の病院へ。ここは以前、清一さんのレポートにも登場していた所。個室もあるが、それはごく一部。お金が払えない人のために開放された大部屋(部屋というかホールというか)のベッドに横たわる人の方が多かったように思う。ここで一番印象的だったのは産婦人科。お腹の大きな妊婦さんたちが診察を待つ、小さな待ち合いからわずか数歩先の病室。その一角に、ベッドの上で産まれて間もない小さな小さな赤ちゃんを抱く女性が座っていた。よく見ると、この赤ちゃんは手にも足にも指が生え揃っておらず、口は開けられないようだった。お母さんの体内にいる時に毒の影響を受けたのだと説明を受けた。私たち 10 数人の団体にぐるっと囲まれて、お母さんは居心地悪そうに見えた。正直、私も決して居心地良くは思えなかった。
病院を後にして車で 10 分足らず。バンタエンの中でも貧しいとされる地区を 2 か所回った。 1 か所目は海辺の地区で、昆布の養殖を行っていた。 2 か所目は川辺の地区で、川から持ってきた大きな石を砕いて売る事を生業にしていた。とは言え、全く十分な仕事とは言えず、私たちが到着した午前 11 時頃、子供も大人の女性も男性も、たくさんの人がいた。何をするでもなく、いた。私たちが車から降りると、ちらほらと人が寄って来た。おもちゃを手にしているのを見ると、「ちらほら」が「わーっと」になり、人垣ができた。 1 週間前まで鶴が折れなくて、前の晩まで練習した折り紙。手裏剣も折れるようになったのに、「子供たちとにこやかに折り紙を折る」ことはできなかった。実際には子供よりも大人が私たちを取り囲み、身動きが取れなくなった。
知事公舎に戻った私たちは知事とご対面。広島へ留学経験があり、日本語が達者な知事。浜田○げひろさん並のダジャレまで披露してくれた。その知事が言った。「バンタエンに必要なのは教育だ」と。その通りだと思った。洋服やおもちゃをあげる事が間違いだとまでは言わない。今現在、寄付がないと服を着られない人々がいる。しかし、彼らは寄付されることに、寄付に頼らないと暮らしていけない自身の生活に、疑問や悲しみは感じていないようだった。ただ明るく生きることと、前向きに努力して生きることは違うと思う。教育の場が作られ、もっと世界を知った時、彼らは自分たちの生活に苛立ちや焦りを感じるかもしれない。しかし、そこを通過しないと自立はできないのだと思う。子供たちは建前でなくかわいかった。日本の子供と同じように、人懐こい子もいれば、恥ずかしがって近くに来られない子もいた。この子たちに教育を。知事の言葉に少しほっとした。
インドネシアの日々は、多少私の頭を混乱させた。「ボランティア」とはどうあるべきか。その地域や国の根底にあるものを変えるには時間も労力も、とてつもなくかかる。だから私たちは目の前の手が届く範囲でしか手助けできないし、見て見ないふりをするよりは良いと思う。ただ、清一さんが行っている現場での指導はとても意味があると思えた。関わるのはインドネシアの中のほんの数十人。意思がきちんと伝わるのはその中の数人。それでも確実に何かを感じて変わる人がいると思うし、清一さんがいなくなった後も、その人から別の人へと少しずつ広がるのではないか。
清一さんがお箸もフォークも使わず、右手で現地の人と同じように食事をしていた。まずはその国の風習や歴史を理解し、なぜ現状が生まれたのかを考えるところから始めることが大切ではないかと感じた。
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弊社のスタッフらが感じたままに寄せたインドネシア研修レポートです。
数日間、何回かに分けて公開して参ります。ぜひご覧ください。
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